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ゆとりの果てに

2010年04月22日 00:00

「オールスター内閣=リーダー格多数」
 こんばんは、今回は久々に政経記事を。ただ今回のは体制批判ですね。まあ、やはりいつものように警告をつけます。それではいきましょう。続きから書いていきます。久々ですね、この警告マーク・・・。

警告
 読む場合は責任を負いかねます。
「ゆとり教育」とは

 本来の「ゆとり教育」の意味は、今までの「詰め込み教育」の反省を生かして、子供たちに独創性や独自性を出すというものでした。だから授業のコマ数などを削減して、それを目指したのです。ただそれには問題が隠されていたのです。独自性という線引きはかなり曖昧なもので、それが暴走したのが根本にあるのではないでしょうか?更なる問題もあるのですが、それは後ほど書きます。

 独自性というのは概念であって、しっかりした定義が有るものではありません。それは言葉遊びになってしまう危険性をはらんでいるわけです。誰でも統一したとまでは言いませんが、共通理解としてある程度は同じ考えにしなければ、暴走を生みます。それが果たされなかったために『無法地帯』と化してきたのでしょう。

 もちろんゆとり教育が全て悪いとは言いませんが、教育格差というものは拡大させたのは事実だと思います。それでも私としてはその教育だけが原因だとは思っていません。そんなメディアに踊らされるほど愚かではないとは自負しています。教育格差の原因ははっきり言って「ゆとり教育」の受けた親の一部の『厚かましい要求』が一番でしょう。

 それは次の章の「道徳」の大切さで書くことにしますが、端的に言いますと言った者勝ちという風潮するが象徴されます。モラルがなくなった世界の怖さはひしひしと近づいてくるのでした。


「道徳」の大切さ

 「道徳」が消えたのは何も政府のせいだけではない。世論の後押しもあったのが私の見解です。「道徳」とは政府の強制的な押し付けの教育を教えるものと言われています。洗脳されるという考えで嫌がる方も大勢いると思いますが、「道徳」とは共通理解を可能にする良くできた教育だったのです。

 言語というものを政府による強制と批判するという方はいないでしょう。それを素直に認める方なら文句は言いません。言葉を例にとって少し話をしましょう。「日本」という言葉で連想するのは基本的には一つでしょう。まさかマトリョーシカやハンバーグなどを思い出す方はまさかいないでしょう。「幸せ」という言葉で第一に連想するのは明るいことでしょう。まさか病気になることや銃で撃たれることなんて思う人はいないでしょう。

 確かに少数派の方はいるかもしれませんが、基本的にはそうでしょう。それが「道徳」に当てはまると、良く分からないことになります。相手を傷つけたことを謝るはずが、逆ギレする。自分に非があっても、相手を屈服させれば自分が正義だ。他にもいろいろと問題は歪んでしまいます。


「道徳」のない世界での圧政

 メディアなのが愚かというのも越えた『拡大解釈』のおかげで、何故か自己表現の自由が無くなってきています。それはどういう経緯なんでしょう。結局のところ、何をしても自由となると基準と言うものがないので、モラルはなくなり秩序もなくなり、安定というものが失せてしまいます。それを防止するために、力というものを持ち出して制限したわけですが、これが元凶です。これによって為政者の考える『善』による施政が行われるようになってしまったのです。

 今の為政者たちは脱税しても、人を殺しても『善』だと思っている方なので、自ずと答えは出ましたね。力こそ全てであり、力があれば悪も『善』にできるのです。それはホントに面白いことですね。もともと大衆社会の民主主義の行き着く1つには、ヒトラーのようなファシズムもあるのですから、十分考えられるでしょう。

 おそらく今の為政者は売国というのを『善』だと思っているとても頭がボケているとしか思えない方々なので、いっその事一掃してもらいたいです。誰が反日の国と仲良くしてあげるのでしょうか?私は歴史的観点から熨斗をつけて送り返したい気持ちでいっぱいです。この気持ちはどうすればいいのでしょう。工作員の方々!


この現状の打破には
 一番手っ取り早いのは、国家を国民みなで反逆することでしょう。そして一気に無政府化するのです。そんなことになったらどうなるか知ったことではありませんが、少なくとも新たなモラルを建築する機会にはなりそうです。それかもっと危険なことですが、美しく日本国全部を消滅させることでしょう。破壊の後に創造ということしか今の腐った現状を打破できない、そう思っています。

 ただそれではさすがに急進を越えて強硬的・刹那的過ぎます。ここで現実的な道を示したいと思います。やはり共通認識の再構築としての「道徳」の復活でしょう。ただし、教育を受けるのは子供だけではなく、親もです。押し付けだと言い出す反論意見満々の雑音も多くなるかもしれませんが、そのこと自体が今の世の中を悪くしていることに気付かない『お花畑』な方なので、無視してもいいです。文句ばかり言うのであれば、堂々と賛成派の人に食ってかかれば良いのです。話し合い分かり合えない残念な方なので、対話自体ができないということになりそうですが、それでもやってくださいね。

 道徳は押し付けという『名言』を真に受けている人は浅はかだと言わざるを得ません。選択の自由はあるということはあるというのは良いとしても。それでは言語を喋らなくていいのですよ。この世は強制が多少様々ではありますが、あるのです。それをある1点においてだけ、文句を言うのはどうなんでしょう。道徳を受けない、警察に犯罪をしても捕まる義務はない、税金を払わない。さてこの「ない」の『強制』は全部認められるでしょうか?


終わりに
 線引きの失った世界にはほぼ無政府な雰囲気や無法地帯の雰囲気、権力主義の風が吹き荒れます。それは私たちには平和なことなんでしょうか?自分の自己主張することだけしているだけで、最後に解決するためには何を使うのでしょうか?基準のない世界ほど怖い世界は在りません。基準となる物差しは例を挙げると常識・法律・伝統などです。伝統は失いました。常識は世の中は要らないといってます。法律はどうでしょうか?

 とにかく世界は何でも許される世界になりそうです。政治家が責任を取らないので、一般の方々も責任を取らなくていいのでしょうか?そしてそれによって、法律外のことはどんどんゆがんでいってしまうのですね。今の内閣・・・。総理大臣の名前はよく覚えていませんが、とにかくゆとり教育の現状内閣のような状態です。自分の意見が通らなければ怒り出す連立与党なだけの方(外国人参政権や夫婦別姓に反対してくれているのが幸い)や、その人を毛嫌いして文句を言うケインズを自称超えたと偉そうな経済無知の方、年金なんて簡単に解決できるとのたまわったミスターなんとかな方、もう大臣にしておいて大丈夫なのかと思う法律のトップの方など・・・。あとは、農家に早く規格はずれでもいいから野菜出せと五月蝿い農業の現場を知らない農水の人。さらに官僚に取り込まれてしまった(当たり前のことですがね)大臣多数云々。こういう人がいても学級委員長は(・・・名前言いたくないなあ)何もしないで他人事で、自分は外遊ばかり。最近ではアメリカにすら相手にされず・・・。・・・もう日本人は全員先進国(※もちろん中国は発展途上国です)にルーピー扱いされてるかもしれないです。

 さてこの国はどこにいくのでしょうか?明るくないことだけは確かですがね。(笑)
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